ひとりごと街灯図鑑(赤堤商店街、下高井戸商店街)

サンポーで、世田谷区街灯図鑑vol.7を公開していただきました。

今回は世田谷線デビューを兼ねて、赤堤商店街と下高井戸商店街を歩いた。
赤堤商店街は、街灯がターコイズブルーで美しかった。
次の下高井戸商店街が大物で、街灯として珍しいところがたくさんあったので、だいぶ詰め込んでしまった。

それでも、記事に乗せ切れなかった写真がたくさんあり、ブログの方でだらだらと紹介しようと思う。 とにかく今回は豊作だった。

先ずは、赤飯がおいしそうなお米屋さん

街灯もどき

強引なマスク。

銀座三越前のライオン像もマスクをさせられているが、マスコット的な存在に無理やりマスクを付けさせ、ちょっとどうなのこれは…みたいになっているやつを集めたら面白いはず。
さすがに誰かもうやってるよな。

これはですね、
「目が合いましたね これもなにかの 
と読みます。そうですか。

街灯図鑑の記事の方で、遠くから街灯の旗らしきものを見つけて、これは街灯に違いないぞと近づいていくくだりがある。
実は街灯を確認しに向かっていくまでの途中で、「爺」という強烈な看板を見つけていた。

ちょっとテンポが悪くなりそうだったので、削りました。

これが下高井戸商店街の街灯ですが、

ポールの下の方には逆三角形の何かがあります。これライトなのかなあ。

街灯の絵を描くときは、できるだけ紙の大きさに収まるように、旗の位置などを上に持ってきたりすることもあるが、ここまで下にきてるとさすが収めるのは難しい。

これはあまり見たことのない形だったので、撮りました。ヒマワリみたい。

英会話の看板の位置が面白い。

看板の下にある黄緑色の枠にはガラスが嵌めてある。よくよく考えると、そもそもこの枠の存在自体が謎だったりする。

ビルトイン。フォント萌え。

これもフォント萌え。

これめっちゃ良かった!
「腰痛を極めてしまった」という一文がもう真似して使いたくなっちゃう。

「花粉症を極めてしまったため、眼を取り出して洗いたい」

最後に裏話を一つ、実は松中通りと駅前通りの街灯だけ、後日撮り直しています。

最初に行ったとき、松中通りは街灯がないものとばかり思い込んでいましたが、何となくグーグルマップで遊んでいたら、プレートの存在を見つけてしまった。
そして、駅前通りは見つけたはずなのに撮り忘れていた。

2回目は仕事帰りに寄ったので、記事の画像をよーく見ると時間帯が少し違うのが分かるかも。

ではまた。

国分寺から国立を歩く

珍しい額を買えた。

大正時代から昭和初期の額だそうだ。
次に描こうとしている作品と何となく合うのではないかと思って、一思いに買ってしまった。

最初はマットを入れることを想定していたが、お店でマットなしで直接作品を置いた状態を見せてもらい、とても魅力的だったのでこのまま額装できそうだ。



そのお店というのが国立にあるコレノナさんというところ。
明治から昭和初期辺りまでの人々が描いた絵が置いてあるところで、お店自体も前から気になっていたので、直接引き取りに伺うことにしたのだった。

国立という街はほとんどなじみがない。
大学時代に、一度だけカレーを食べにきたことがある。
東京駅から中央線で向かうと国分寺で乗り換えをしなければいけないので、どうせなら国分寺から国立まで歩いてみることにした。

少し早めに家を出て、東京駅に着いたのが12時ちょっとすぎ。なんと、国立駅で事故があり、運転を見合わせているという。
運転再開は13時10分ころとのこと。これはいかん。

秋葉原→三鷹→国分寺というルートに切り替えることにした。

秋葉原に着いた辺りで、東京ステーションギャラリーで「大津絵」の展示をやっていたことを思い出し、運転が再開するまで観ていてもよかったかなと思ったりする。

ともあれ国分寺に着く。
先ずは隣の駅、西国分寺を目指すが線路沿いを直線で進めないタイプのようだ。

国分寺の辺りは、緑が残っていて起伏が割りと激しく、成城や喜多見と雰囲気が似ている気がした。

すごいところに街灯がある。

至近距離で灯りの部分を見たのは初めてかもしれない。

この辺りの街灯はみな、焦げ茶色で統一されていて、もしかしたら意図的に印象をそろえているのかもしれないなと思った。
成城の街灯も全部焦げ茶色で統一されていた。

内藤ぞう公園。
「内藤」はこの辺りの町名らしいのだが、「ぞう」と一緒に来られるとちょっと面白い。

熱川バナナワニ園みたいなことか。

となると、内藤さんの方も何かフルーツを摂りいれたらどうだろうか。
美容と健康にもいいし。

「内藤ブドウぞう公園」とか、ちょっと韻を踏んでるし、声に出したくなりませんかね。

ぱおん。

この公園の主である。
台の色とぞうの色変えちゃったから、台が舌みたいに見える。

国立に近づいてきた。

2色の街灯は、見つけるとちょっと嬉しい。
緑色とクリーム色は上品でとてもきれい。

点灯していると分かりやすいが、菱形の模様が入っている。
こういう、ちょっとひと手間入っているのはいいですね。

これまさか1058年創業じゃないよな。

1058年は藤原頼通の時代で、平等院鳳凰堂が建立された5年後だそうですよ。

駅前通りらしくなってきた。

左右で色の違う街灯も珍しい方ですね。
オレンジ色というのがまたニクイ(何が)。

どうでもいいんだけどこの辺り、夢のなかでたまに出てくる風景と似ている。
初めてきたはずなのに不思議だなあ。

前世は、1058年創業の床屋さんだったのかなあ。

珍しいタイプの室外機。



国立駅に着いた。

街灯がとんでもなくゴージャスである。
なにせ金があしらわれている。タイの街灯は割りとこんな感じだった気もする。

国立は街並みがよく整備されていて、人工的に作られている印象がある。

ところで、「オオカミこどもの雨と雪」という映画がある。
これが好きな映画ランキング3位なので、まあだいぶ好きな映画といっていいはず(ちなみに分母は多分、50~100の間くらい)。

その舞台となっているのが国立で、駅前を歩いていると少しノスタルジックな街並みとあいまって、自分の心の繊細な部分を突かれたような、何ともいえない「ぐはっ!」という気持ちになる。

せっかくなので、映画にも出てきた洋菓子屋さん「白十字」でお菓子などを買って帰る。

駅の反対側はもう少しひっそりとしている。

街灯もさることながら、「光」というフォントに自前でこしらえたオーラが漂う。

例えば、「国立を震撼させるようなものすごい街灯を作ったるでぇ!!」となった時に、色やデザインにまず意識がいくと思うのである。
なので、フォントにまで手が入っていたりすると、お!気合が入っているなと思ってしまう。

この辺りでコレノナさんへ行き、無事に額を引き取る。

コレノナさんは、内装もかなり独特で、有無を言わさず時間の重みを感じさせる作品の迫力もあり、小さな空間ながらエネルギーがあり、圧倒されるような、吸い込まれるようなお店でした。

帰りは、何となく通り過ぎてしまっていた西国分寺を目指すことにした。

・これ空気入れだよね
・空気入れの単位は「1品」なのか
・そもそもこれは空気入れなのか
・100円はどこに払えばいいのか
・本来は後ろの棚のようなものに何か置いてあってそれが100円なのではないか

などなど、疑問が泉のように湧き出てくる。

ゾウのマスクの位置そこでいいのか。

西国分寺駅に着いて電車に乗ると、埼玉の方まで行ってしまい、えらい目にあうのだが、それはまた別のお話。

ではまた。

個展最終日

個展最終日は11日目だが、10日目はブログがエラーになってアクセスできなかった。



10日目のことをさらっと書く。

何となく個展の目標にしていたものは、おおかた達成できたので10日目と最終日は非常に穏やかな心境だった。

縁側に座ってほうじ茶をすすり、しわしわと笑っているおじいちゃんのような心持ちでお客さんをお迎えした。

と言いつつ、ありがたいことに、駆け込みで見に来てくれる方がかなりいて、割りと忙しかったりもした。

10日目は、家に持って帰った作業道具をCOYAMAさんへ持っていくのを忘れ、ヨーカドーに買い出しに行っては帰りに迷子になるなど、終始アホ丸出しの一日でした。

最終日。

大変おいしかった、黒糖アイス抹茶ラテと限定メニューのレモンケーキも食べ納めである。

黒糖アイス抹茶ラテは、COYAMAさんへ行けばまた飲めるが、レモンケーキは限定メニューなので泣いても笑っても最後である。

しかし黒糖アイス抹茶ラテだって、ギャラリーに座って作品や好きな本に囲まれた空間で食べるのはやっぱり最後だったりして、寂しい感じがする。

お客さんの数は、今日がダントツで多かった。
最終日ということで、駆け込みで入ってきてくれる方が15時くらいから一気に増えた印象だった。

さすがに11日目ともなると持ち前の人見知りはやや鳴りを潜め、「お近くにお住まいですか~?」や「お店の告知で見に来てくれたんですか~?」など、するっと話しかけるスキルを習得した。

最後のお客さんには「四畳半神話大系」を薦め、熱心に読んでくれたりした。

展示が終わって、初めてギャラリースペースのドアを閉めた。
おお、何かそれっぽいぞ!インスタ映え!

木目がなんとなく、生き物の頭のようにも見えるし、鳩サブレのようにも見える。
この期に及んで、まだこんなことをやっている。

照明を落とした状態のギャラリー。

これがもう何というか、大変すばらしい。
もちろん、照明がちゃんと当たっている状態が本来の状態であるし、その状態を知った上だからこそよく見えるのだと思う。

例えば、朝起きて電気をつける前の薄暗い状態で、無造作に置かれている描きかけの作品を見る。
そうすると、想定していた見え方と少し違って見えたりして、独特の魅力がある。
そういうのに似ているかもしれない。

見えづらい部分をイメージで補おうとした結果、想像力がはたらき思いがけないアイディアが浮かんできたりする。

最後の最後、ギャラリーを出ようとするタイミングで窓の外に蛾が飛んできた。
「四畳半神話大系」は、蛾の出現が物語が進行する上での重要なカギになっているので、勝手に妙な縁を感じた(さすがに写真は撮らなかった)。

ということで、無事に個展が終わりました。

ご来場してくださったみなさん、本当にありがとうございました。

前回の個展からのつながりで家族総出で見に来て下さった方、だんなさんを連れてリピートしてくださった方、ポストカードが品切れで何度も足を運んでくださった方、お世話になっている古本屋さん、熱心に宣伝をして下さったコーヒー屋さん、今回も素敵な額装をしてくれた画材屋さんなどなど、印象深い方々がたくさんです。ありがとうございました。

そして、4週間お世話になったCOYAMAさん。
COYAMAさんは、いつも誠実な対応をしてくださいました。

今回の展示は、会場がブックカフェで本に囲まれていたこともあり、インプットがすごく充実していたと思う。そして制作過程も含め、古本との距離がぐっと縮まった気がする。

去年の初個展が終わった後「もう個展なんかしばらくやらんぞ!」と思った(初個展にしてはまあまあ成功だったと思う)が、今回はすぐにでもやりたい。この差はなんだろう。謎である。

ただ、何かを考えようにも頭が上手く回らず、謎のやり切った感がある。
やりたいこと、試したいことはたくさんできた。

いつも思うが、創作活動を続けつつ、健全なメンタルを保ちつつ、しかもいい作品を作ることは案外難しい。

色々な人が色々なこと(善意悪意問わず)を言うので、とにかく自分のこと(または作品)を大切にしてくれる人の意見だけを聞いて、生まれたての柴犬のごとく存分に甘やかされることが非常に大切だと思う。
その代わり、そういう人たちに対して顔向けできないようなことはしないという点に尽きるのではないかという気がする。


最後に、丸子橋から見た風景。

丸子橋は本当にスケールが大きくて、大好きになってしまった。
渡り切った大田区側の岸に神社があり、なんとそこは古墳の上が神社になっているらしい。

新丸子はすごく面白いところだった。ここは絶対、あとで散歩に来よう。

武蔵小杉は、急に発展した街というのが分かりやすく伝わり、駅前には大型のショッピングモールがいくつもあって、少し離れると素朴な住宅街というのが面白かった。
勢いがあって少し作り物っぽい感じが、バンコクを思い出して懐かしくなった。

向河原は素朴な下町という印象。隣の平間駅も自転車で通ったが、なかなかディープな匂いがした。

何か言い残したことはないだろうか。多分、あるはず。

まあいいや。気が向いたらまた更新します。

4週間、このとりとめもない文章に付き合っていただき、ありがとうございました。

個展9日目

今日は人がたくさん来てくれた。

キャプションと一緒に、作品に関するちょっとしたストーリーを入れてみた。

タイトルを考えていた頃を思い出して、タイトルの行間(?)を補うような文章を書いてみたが、見てくれた人には好評なので安心した。

あまり得意という意識はないけれど、文章を割りと褒めてもらえる機会が多い。
絵に比べると、文章を書く機会はそこまで多かった訳ではない。

強いて言えば、ポケモン図鑑にとても憧れていたので、ポケモンのパクリみたいなキャラクターを描いて、こっそりとテキストを書いたりしていた。
気合いの入った絵になるとテキストにも気合が入って、学校に行ってる間ずっと考えたりしていた。こういうのが実は生きているのだろうか。

あとは、どちらかというと理屈っぽい性格なので頭の中でごちゃごちゃ色々なことを考えたり、20代後半のタイ時代は「いかにして生きるべきか」みたいな論文もどきを勝手に書いていた。

今も結構考えたりはするが、あれはまあ若気の至りなので、「おいお前!この論文もどきをSNSで晒してやるぞ」とフォロワー5万人とかの人におどされたら、15万円くらいなら払ってしまうかもしれない。

今日は絵描き仲間が二人来てくれた。

絵描き仲間の関係というのは面白いし、ありがたいと思う。

普段はSNS上でたまに交流する程度のものなのに、展示になるとちゃんと来てくれたりするし、自分も出来るだけ行くようにしている。

ギャラリーで30分くらい絵の話や近況報告をして、また半年とか1年とか会わなかったりする。

緩やかなようでいて、実は深いところでつながっているようで、普通の交友関係とはちょっと違う感じがする。

路上観察系の話もたくさんできて楽しかった。

何日か前のブログで、ワイズベッカーから着想を得て、生活空間で生き物っぽく見えたものを描いてみようかなということを書いたが、何となく素材を集め始めている。

例えばこれ。

個人的に、ネットは絶対に行けると思っている。
黄色というのも、普段あまりメインで使わない色なので面白そうな感じがする。

左側の草が何となく腕のようにも見えるが、この辺はどうしようか。

機械枠から参戦。
人工物は、形が割りとシンプルだ。遮断機のように伸びた部分をどうするかがポイントかも。

あの男の子がいるバッテンのシールはどうするんだろう。
普通に考えれば省略だけど、うまく採り入れたら面白そう。

次は壁面枠。

やたらと躍動感があって、調子に乗っている感じがする。
今までと違って平面なので、何かアプローチが変わるのだろうか。

こんな感じでちょっとずつ撮りだめしていけば、ネタに困ることはなさそうだなと思う。

個展は次の土日で最後です。
駆け込みでもヘッドスライディングでも錐もみ回転アタックでも何でもいいので待ってます。

個展8日目

今日はとても良い日でした。

ガス橋の方からCOYAMAさんへ向かってみることにした。

夜に通った時に、上の灯りだけ色が違うことに感動した下丸子商店会の街灯。

よく見ると、上だけ少し赤みがかっている。
どうやらカバーの色は同じで、灯りの色そのものが違うらしい。

こちらが先日の夜の街灯。
上の方がオレンジ色になっている。

ガス橋を渡る。

橋を渡る手前、大田区側の方は少しだけ街路樹が立ち並ぶエリアがあって、それが何とも中途半端な長さなので、不思議な空間だなあと思っていた。

どうやらcanonの本社があって、その一角だけ街路樹が並んでいるらしい。

なかなか味のある街灯。
柱はかなり明るめの銀色で、かさの部分は白。
白い街灯というのは意外と珍しい。

少し年季が入っているが、全体的に明るい白がベースになっていて、デザインにも気品がある。

色合いやデザインから鑑みるに、白金台辺りの街灯にしたら地名とも相まって大変よろしいのではございませんこと?などと夢想する。

変わったデザインのガードレール。
魚が川を泳いでいるように見えるが、右は鳥に見える。

鳥は泳ぐのだろうか。
もし鳥も泳いでいるとしたら、魚が鳥を追い回しているようにも見える。

そんな精神的にざわつくようなものをガードレールにする訳がないので、くだらない言い掛かりはやめましょう。

創作活動を続けることが至上命題であるなら、作家は自分を甘やかしてくれる人だけを相手にすればいいと思う。
逆に言うと、厳しいことを言う人は相手にすべきではないとさえ思う。

厳しいことを言われて、反骨精神でいい作品ができることもあるかもしれないが、ずっと続けると折れてしまう気がする。

ちなみに、ここでいう「甘やかす」とは「作品を褒めてくれる」くらいの意味です。

今日は作品をたくさん褒めてくれて私は幸せでした。

作品というのは、出来上がった瞬間に「とんでもないもんを作っちまった!ワイはコイツで天下を取ったるでぇ!!」となる訳ではない。
「うーん、どうなのかなあ…」とそろ~っと個展やらSNSやらで出し、何となく反応をうかがう。
で、「いいですね!」と褒められると、「やっぱり!?」と図に乗るのである。

これに関しては、某有名なミュージシャンも似たことを言っていたので、あながち自分だけの話ではないと思う。

今日は本当にお客さんと心が通い合う瞬間がたくさんあって、ああ個展をやってよかった。と思えるような日でした(今までもちゃんとありましたよ)。


実は今回の個展にどうしても来ていただきたい人がいた。

去年の展示の最終日、最後の最後に見に来てくれたおじいちゃんとお孫さんの二人組。
とにかく二人で作品をすごく熱心に、楽しそうに見てくださり、感激した。

去年の個展は、つらいことが色々と重なった時期でもあり、最後の最後にすべてが報われたような感じがした(もちろん、それ以外にも思い出深いお客さんがたくさんいる)。

今の難しい状況でお会いすることは叶わないかなと思いながら、ご案内の手紙を出してみたら、なんと家族総出で来て下さった。

まさか今回の展示でお会いできると思わず、泣きそうになった。ほんとに。
ああ、人間て感激すると本当に涙が出そうになるんだなあと間抜けなことを考えたりした。

しかも、原画まで買っていただいた。

今日のことは忘れないと思う。

絵を描くのをやめたくなった時、何となく妥協してしまいそうになった時、そっと思い出して前に進む力をもらうような、大切な経験になった。

面白い模様の何か。

ハッピーだったので、調子に乗ってソフトクリームを食べました。

来週でいよいよ最後です。よろしくお願いします。

個展7日目

ものすごい雨に降られた。

家を出る前は気が付かなかったのに、ドアを開けた瞬間に「これはあかん」と思った。
しかも濡らしてはいけない荷物を手に提げていたので、それをかばいつつ傘をさす。

最寄りの駅に着いて改札を通ろうとすると「残高不足」の表示。
チャージをしようとリュックから財布を出すと、紙幣まで濡れていた。

何を隠そう自分は、「全日本傘さすの下手くそ選手権」ファイナリストなのである。
そのうえ、右手の荷物をかばっているので、背中のリュックなぞ雨ざらしも同然。

案の定、紙幣が券売機を通らない。チャージができない。示し合わせたように小銭は70円しかない。
仕方なく駅員さんに言うと、めんどくさそうにピン札に変えてくれた。その節はどうも。

増刷したポストカードを並べて、机の上がまた賑やかになった。

先週の水曜日にポストカードを買いにきたものの、欲しいものが売り切れだったというお客さんがちょうど来てくれた。とてもありがたいことだ。

今回の展示で多用したスチレンボードで少し立体感を出す手法を面白がってくれ、次もこの方向性でいくか悩んでいるとお話すると、ぜひこのままやってほしいと言ってくれた。

作品が今の形になった過程には、少なくとも4年分くらいまでは論理的な積み重ねがあるが、ふと何でこんなことをしているんだっけと疑問に思うことがある(何で絵を描いているのだろうという意味ではない)。
「こうしてみよう」と思ったアイディアを、果たして効果的に実現できているのだろうかと思う瞬間がある。

立体にしたのは影が出ることによってシルエットが強調されるからだが、立体はとにかく手間もかかるし、リスクも高いし、額装のバリエーションも平面より少ない。
しかも、自分は細かい作業をたくさんしている割に本来はとてつもなく不器用でせっかちなので、詰めが甘かったりする。
この間来てくれた大学の後輩に、その辺を思いっ切り見破られて少し傷ついた。

そこまでのことをして、それに見合うだけの効果が立体にはあるのか。
やっぱり「このままやってみてほしい」という言葉をいただくと、もう少し続けてみようかなと思う。

また、展示に来てくれた職場の人にイヴァン・ガンチェフの画集を薦めたりする。

本棚コーナーにあるほかの本と比べると、ガンチェフの画集は表紙がやや地味で、抽象的な絵が載っているだけなので、中身がよく分からず、あまり手に取ってくれる人がいない。

水彩のにじみやクレヨンを駆使した、鮮やかで不思議な絵が載っていて魅力的な画集なので、せっかくだから手に取ってもらいたい。

併設のカフェのなかで読んでくれて、気に入ってくれたみたいで嬉しかった。

本棚コーナーのなかに唯一の文学作品「四畳半神話大系」を置いた。

自分は森見登美彦さんの作品が大好きだが、そのなかでも「四畳半神話大系」が一番好きだ。

「四畳半神話大系」は、大学生の主人公が4つのコミュニティ(サークルなど)に属した場合の生活をパラレルワールド的にえがいていく小説。

主人公はどの章でも現状に不満を持っていて、あの時このコミュニティではなく、別のコミュニティに入っていれば!という主旨の独白から始まる。

森見作品らしく基本的には意味がなく下らないことばかりやっているのだが、時おりもの凄く鋭い一節を忍ばせてくる。

例えばこれ。

「我々の大方の苦悩は、あり得べき別の人生を夢想することから始まる。自分の可能性という当てにならないものに望みを託すことが諸悪の根源だ。今ここにある君以外、ほかの何物にもなれない自分を認めなくてはならない。(以下略)」

自分は大学時代、どのサークルにも属さなかったが、何回か入ってみようと思い立ったことがある。デザイン研究会、絵画同好会、日本全国を旅するサークルなどなど。

デザイン研究会は声をかける寸前まで行ったが、何となく雰囲気が合わない気がしてビビッてやめてしまった
絵画同好会は、作品展を見たが作風が違う気がしてビビッてやめてしまった。
日本全国を旅するサークルは、実態が謎すぎてビビッてやめてしまった。

ビビッてやめてばかりで結局、塾講師のアルバイトをした。
バイト仲間でよく遊んだし、今でも付き合いのある友人も何人かいたりで、それなりに楽しくはあったが、あの時サークルに入っていたらどうなっていたのかなと思うこともある。

それでも今ここにある自分以外、ほかの何者にもなっていないのかもしれない。
やっぱりCOYAMAさんで、こうして個展をやっているのではないか。
みたいなことを「四畳半神話大系」は、くだらない話の合間にすっと問いかけてくる。

とても油断のならない小説なのである。



何か書評みたいになってしまったが、今日はこの辺で。
明日もよろしくお願いします。

個展6日目

今日でちょうど真ん中。
営業は水土日の週3日間。月火木金は真面目くさった顔して普通に働いている。
とはいえ、会期中はポストカードの補充の手配をしたり、これからの絵のことを考えているので、ずっと展示をやっているような感覚である。

真ん中の一本が少し傾いている。
カナブンとかをよけているのかも。

一番上の黄色いラインに開いている穴が目に見えて少し愛着がわく。

少し腑に落ちたことがある。

1つの絵にかけることができる情熱はある程度決まっているんだなと。
自分は集中力が長続きしないというか、新しいアイディアをどんどん試していきたい方なので、1つの作品にずっとかかりきりになっていると、途中で息切れするらしい。

とはいえその限界値というのは一定ではなく、制作の途中で上手く行けば限界値も上がるし、一方で失敗が続いたりすると士気が下がる。

そして大掛かりな作品になればなるほど、道のりは長い。
つまり限界値を超える可能性が高くなる。

限界値を超えるとどうなるか。「これでいいか」とするラインが引き下げられる。
これは意識下で引き下げられるのではなく、恐らく無意識だ。

普段なら「よし、これで大丈夫!」と思えないレベルのはずなのに、オッケーにしてしまったりする。無意識に妥協してしまうのである。特に終盤の背景とかで。

やっぱり、大きい絵をあまり描かないようにしたいなあという話。

ただ、鉛筆で下描きをしているとどうしても楽しくなってきて、気を付けないと段々大掛かりになっていくところがジレンマである。

ちなみに身体が疲れている時も同じことが起こるので、あまり無理をしないようにしている。
前回の個展の時に、「寝なければいいんですよ」とアドバイスをもらい、「あ、こういうことを言う人とは合わないな」と直感的に思ったりした。
それはどうでもいいか。



フィリップ・ワイズベッカーの本を読み終えて、あらためて郷土玩具はいいなと思った。

(現代の感覚でいえば)直球のかわいさではないところ、話が通じるような通じないような何を考えているか分からないところがいい。

ワイズベッカーは小さいころ、「箒にまたがって、板きれを盾に」、「三銃士ごっこ」をしていたらしい。
「当時は、空想が補ってくれたおかげで、なんでもないものでも楽しく遊べたのだ。」と回想している。

郷土玩具にも通じるところがあるのかもしれない。
目や鼻がなかったり、手足が極端にデフォルメされていたり、そういうところに想像の余地が残されているところが魅力なのかもなと思ったりする。

本のなかでワイズベッカーは、工房で制作体験をしたり、一緒に宴会をしたりしていることがうかがえるが、自分は人見知りだし、酒も飲めないし、偏食なので、こういうのは無理だなとか、いらん想像もしたりする。

個展に来てくれた古本屋さんに郷土玩具系の本を教えてもらい、ほしい本が増えてきて楽しみである。



今日はガス橋から帰ってみることにした。
名前からしてちょっとスチームパンクのかおりがしなくもない。
こういうのも想像の余地といえるのだろうか。

知らない街の知らない街灯はやっぱりいい。特に夜。

一見するとノーマルな四角い街灯に見えるが、よく見ると灯りの部分に模様が入っている。
こういうのはとても好き。

ガス橋が近づく。

ガス橋に着いた。

肝心な橋の写真だが、とにかく歩道の狭いところで止まっている余裕がなかったので、撮れなかった。

丸子橋は外観も立派で、道も広くて、分かりやすくいいところだった。
止まって景色を撮っている人もたくさんいた。

ガス橋は、丸子橋よりもだいぶ簡素で、さびれていた。
これはこれで魅力的だが、なにぶん道が狭いうえ、柵も簡素なのでとにかく恐い。

ガス橋を抜けて大田区側に出ると、いきなり並木道が出てきて楽しかった(ここも写真は撮れない)。

目まぐるしく街の雰囲気が変わるところを走るのはとても楽しくて、ポケモンで「じてんしゃ」に乗っている感覚を思い出す。○○番道から街を抜けてまた道路に出たり。
雰囲気が変わる瞬間に、脳内でBGMも変わったりする。

下丸子商店会の街灯はなんと、上段だけ色が違う。
最初は1基だけ壊れているか、後で取り替えたのかなと思ったが、全部違っていた。素晴らしい!

昼間の街灯はどうなっているのだろうか。



土曜からは後半戦。長いような短いような。
またよろしくお願いします。

個展5日目

どうやらここは8叉路であるらしい。
COYAMAさんへ向かう途中の道。

右側の赤丸が例の8叉路。
直線がちょっとズルをしているような気がしなくもないが、8叉路ということで何とかいけませんかね。

ちなみに左の赤丸がCOYAMAさん。

一体何人がこんなよく分からないブログを読んでくれているのか分かりませんが、今日は路上観察多めで行きたいと思います。


在廊している間、たまに外の空気を吸いに向河原の方へ行くが、ここは路上観察的に魅力的なエリアなのではないかと思う。

緑に囲まれた換気扇が醸し出すラピュタ感。
無機物が緑に囲まれていると、大体ラピュタっぽくなる説。

そしてこの郵便受け?
この郵便受けは木製だが、これが金属でできていたらやっぱりラピュタ感が出ていたのではなかろうか。

これは何かこう、言葉を知らないのでうまく説明できないが、本来は段差になっている白い部分が道路と平行にずっと続いているはずだが、この排水溝と一緒に終わってしまっているので、排水溝が道路から分断されて突然現れているように見えて面白かったよという写真。

向河原駅までの300メートルくらいで、これだけの豊作である。
ちなみに、近くには前々回辺りに登場した「わたたに」さんのかわいい看板がある。

触角が生えたように見える昆虫系街灯。

帰りは新丸子の方に行ってみた。

とても面白いところだった。街灯もたくさんあった。
東横線繋がりのせいか「王田土人が住みたい街ランキング」1位の学芸大学に雰囲気が似ている気がした。学芸大学よりも、もう少し下町寄りで緩いかも。

いずれせよ、この辺りはいつかゆっくり散歩してみたい。

新丸子を少しぶらぶらした後は丸子橋を越えて、夜の街灯の光の方へ寄り道をしていくと嶺町の方を通って、最後は石川台の希望ヶ丘商店街へ出た。
ここの商店街は、ゲートがたくさんあってテーマパーク感が高い。

途中で見つけた焼き鳥屋さん(?)で焼き鳥とから揚げを買って帰る。
から揚げがとても美味しかった。

ちょっとだけご連絡。
ありがたいことに、ポストカードがほぼ完売の状態です。
早ければ水曜日、遅くとも来週の土日には補充が出来ると思います。

個展4日目


水曜日に引き続きパソコンで作業をしたかったので、今日は電車でCOYAMAさんへ向かった。とはいいつつ、実はパソコンを持って行ったってチャリ通できるのではと思っている。
多分、近いうちに試すと思う。

最寄り駅から武蔵小杉駅へ向かう途中、電車は家の方へ向かって走る。
つまり方角的には、最寄り駅(電車)→自宅→武蔵小杉になっており、自宅から最寄駅まで向かうのは一種の逆走なのである。

こういう時に思うのだが、電車の走行中にボタンを押すと窓が開いて、強力なバネによって座席がびよーんと跳ね上がり、外に出たりとかできないだろうか(まあ無理)。
着地に伴う危険は、めいめいがパラシュートを持って電車に乗れば解決である(まあ無理)。

知り合いが2組来てくれた。
散歩繋がりのライター仲間と何度か利用させてもらっている古本屋さんが見にきてくれた。

個展で来てくれる人というのは、その時の自分の心の置きどころみたいなものを反映していると思う。
ライターの仕事も去年新しく始めさせてもらったことだし、古本屋さんも本格的にお店を回って好きになったのは割りと最近だったりする。

どちらも、去年の個展の時点では考えられないことだ。
緩やかに時間が過ぎているように見えても、実際は1年半で色々なことが変わっている。しかもライターの仕事は、去年の個展が遠因になっていたりして、ちゃんと地続きになっているところもある。

知らない人も何人か来てくれた。
小学校の教員をされていたという方、個展の告知を見て興味を持ってくれた方(2人目!嬉しい!)など。



個展の会期中限定メニューのレモンケーキ。
COYAMAさんが自分の作品をイメージして作ってくれた。レモンがしっかりと効いていておいしい。コーヒーの苦味ともよくマッチする。

会期中限定メニューである上に、先週も食べている。
何で初日のブログで真っ先に載せないんだという話である。写真を撮り忘れたのである。



またもやCOYAMAさんが持ってきてくれた本。
右側の「フィリップワイズべッカーの郷土玩具十二支めぐり」、これがとんでもなく危険な本だった(いい意味で)。

中身は、フィリップ・ワイズベッカー(フランス人アーティスト)が日本全国の十二支の郷土玩具を作っている場所を巡った紀行文で、郷土玩具のイラストや工房の写真が添えられているというもの。

ところで自分は今、世田谷区にある商店街の街灯を観察する記事を、街灯のイラストを添えつつ描いたりしている。
そして1年ほど前に、「今のスタイルの絵(空想生物)と街歩きが融合したらどうなるんですかねえ。」と言われたことがある。

その時はなるほどと思いつつも、街灯を描く時の思考回路と絵を描く時の思考回路が全く違うので、融合できるイメージが湧かなかった。
ただ根っこの部分ではつながっているという確信があって、これは今後しばらく頭の片隅に残り続けるテーマだなと思った。そして融合のイメージが湧くまでは2年くらいかかるなと思った。

このワイズベッカーの本には、作業場に無造作に置かれている工具類や街並みの写真が出てくる。これがたまに何らかの生き物に見えてくるのだ(ワイズベッカー自身がそう書いているところもある)。

そこで閃いてしまった。
普段路上観察をしている時に面白いと思った形をモチーフにして、空想の生き物を描いてしまえばいいのは。

例えば、こういうのがあったりする。
これはなんとなく4足歩行の生き物に見える。

融合のヒントになる素材はもう画像フォルダの中にあったのだ。

あまりにも思いがけないタイミングで閃いたせいで、これが一時の熱に浮かされた状態なのか、本当に核心を突くような発見なのかよく分からない。
ただ、イメージというかやってみたいことは瞬時にぶわあっ!と広がった。本当に危険な本である。

一方で、性急に結論を出すべきないことだとも思う。 無理にやる必要もない。
自分の作品のなかで一番大事にしたいところは、シルエットである。

そのシルエットのベースを自分で作らずに、街中の偶然の事象に委ねてしまうことに不安を覚えたりもする。



最近思うのだが、結局のところ絵描きはこれまで歩んできた紆余曲折の軌跡がそのままその人の立ち位置になり、そしてそのまま個性になるのではないかと。

逆にいうと、何かから影響を受けることから逃れることができない。
それならいい加減、自分の立ち位置というか落としどころを決めてしまいたいう思いもある。

ゲームの悪役を描くことから始まって怪獣や空想の生き物を描くこと、街歩きが好きで路上観察や街灯観察をすること、この2つが自分の重要な立ち位置である。

そして両者は「ここではないどこか別の世界に触れたい」という思いによって通底している。多分。

この2つが交わった地点となりうる表現手法のヒントを、フィリップ・ワイズベッカーの本はいきなり目の前に提示してきた。いやー、危険な本だよこれは。

もちろんすぐに買いました。今はすぐ隣にあります。



ということで、今日は色々な発見があり、良い日でした。

個展3日目

二度寝をした。

午前中に眼科へ行くつもりだったが、あえなく延期になりました。
まあそれだけ身体が疲れていたんだなとポジティブに解釈することにした。

今日はいくらか涼しい。
昨日の夜の予報だと、「雨ときどき止む」という地獄のような天気だったが、二度寝から醒めると案外晴れていた。

今日は電車でCOYAMAさんまで向かうことにした。

入道雲らしきものが少しだけ出ている。
しかし、日曜日の入道雲と比べると何とも頼りない。が、送電線があると、何となく夏っぽさがプラスされる。

COYAMAさんに着くと、ついさっきまでお客さんが来てくれていたらしい。
ありがたいことに、コメントを書き残してくれていた。申し訳ないことをした。

ギャラリーで作業をしていると、雨が降ってきた。
最初は気が付かなかったが、段々と雨脚が強まってきて、もの凄い雨になった。
雨が降るたびに夏が遠ざかり、涼しくなってくる感じがして寂しい。

去年は、9月の中頃か終わり頃にとんでもない夕立がきたことがあり、職場から帰る途中で降られてえらい目にあった。あまりにも凄すぎて一人で笑ってしまった。
そのあとは極端に暑くなる日がなくなって、ああ、あの雨で夏が終わったんだなあという感じがした。

ふと外をのぞいたら、窓に自分の作品が映っていた。
この写真は、ガラスの模様とうまくマッチして、幻想的で結構気に入っている。

今日は平日で天気もあまりよくないので、ギャラリーは緩やかな時間が流れる。
作業がよくはかどった。今まで観察してきた街灯の色や形などを入力して、どういうものが多いのか集計してみた。
数字にして見ると、意外な思い込みなどが取れて面白い。

やってみた人なら分かると思うが、個展というのは案外孤独である。
客足の絶えない爆裂人気作家ならともかく、お客さんがいない間は基本的にはひとりだ。

去年の個展は隣にお店があったものの完全に分かれていたので、正に「孤展」といった感じだった。
中学来の友人が来てくれて、一緒に話したり、ふざけたり、1時間くらいいてくれて、とても心強かったのを覚えている。

その点、COYAMAさんは入り口がブックカフェとつながっているので、特に何をする訳でもないが、いくぶんか心強い。

途中でまた少し外に出る。
老舗の風格が漂うパン屋さんに再び行ってみる。カレーパンが1番人気ということでひそかに狙っていたのが、今回も売り切れだった。
パンに囲まれたなか、竜田揚げがぽつんと置かれていたので買ってみる。

わたたに
平仮名にするとめちゃくちゃかわいい。

ところで、ポストカードの売れ行きから察するに、「回遊」という作品が好評らしい。

※この作品はSNSで過去に載せたことがあるため、隠す必要はないという判断で載せています。

「回遊」は描くのにとても疲れる作品だった。

最近は、「どうやったら疲れずに描けるか」が割りとホットなテーマだったりするので、疲れながら描いた作品を評価していただくのは嬉しい反面、悩ましいところでもある。
疲れることから逃れるべく描いた作品では、まだパワー不足だという結果なのかもしれない。

一昨年辺りから、もうこの描き方は限界だ。これ以上は描けない→新しい方法(無理せずに描ける方法)→もう限界だ→新しい方法を繰り返している気がする。

大体、なぜ疲れてはいけないのか。甘ったれるな、ちゃんと描けという話かもしれない。
が、本来は癒されるために絵を描いているので、ここで無理をしてしまうと筆を折るところまで行きかねない。案外、本質にかかわる問題なのである。
描くことで神経をすり減らせてしまうのは、あまりにもあべこべではないかという話だ。

疲労の原因を突き詰めていくと、結局のところ背景を描くのがしんどいという点に集約される。

それならば、背景を描かなければいいのでは。もしくは、作品全体を小さくして背景の面積を減らせばいいのでは。というのが最近の(シンプルな)仮説で、これは「ラストダンス」という最新作で試してみた。

一方で、絵本に対するあこがれが段々と強くなっている。
絵本の方へ傾倒するなら、背景ともうまく付き合っていかないといけないなあとも思う。

個展は、自分自身の作品を客観的に見られる機会でもある。まあ少しずつ考えて行こうかなと思う。

帰りに外に出ると、半袖でいるのが不安になるような涼しさを感じた。
夏が終わってしまうのはやっぱり悲しい。