個展6日目

今日でちょうど真ん中。
営業は水土日の週3日間。月火木金は真面目くさった顔して普通に働いている。
とはいえ、会期中はポストカードの補充の手配をしたり、これからの絵のことを考えているので、ずっと展示をやっているような感覚である。

真ん中の一本が少し傾いている。
カナブンとかをよけているのかも。

一番上の黄色いラインに開いている穴が目に見えて少し愛着がわく。

少し腑に落ちたことがある。

1つの絵にかけることができる情熱はある程度決まっているんだなと。
自分は集中力が長続きしないというか、新しいアイディアをどんどん試していきたい方なので、1つの作品にずっとかかりきりになっていると、途中で息切れするらしい。

とはいえその限界値というのは一定ではなく、制作の途中で上手く行けば限界値も上がるし、一方で失敗が続いたりすると士気が下がる。

そして大掛かりな作品になればなるほど、道のりは長い。
つまり限界値を超える可能性が高くなる。

限界値を超えるとどうなるか。「これでいいか」とするラインが引き下げられる。
これは意識下で引き下げられるのではなく、恐らく無意識だ。

普段なら「よし、これで大丈夫!」と思えないレベルのはずなのに、オッケーにしてしまったりする。無意識に妥協してしまうのである。特に終盤の背景とかで。

やっぱり、大きい絵をあまり描かないようにしたいなあという話。

ただ、鉛筆で下描きをしているとどうしても楽しくなってきて、気を付けないと段々大掛かりになっていくところがジレンマである。

ちなみに身体が疲れている時も同じことが起こるので、あまり無理をしないようにしている。
前回の個展の時に、「寝なければいいんですよ」とアドバイスをもらい、「あ、こういうことを言う人とは合わないな」と直感的に思ったりした。
それはどうでもいいか。



フィリップ・ワイズベッカーの本を読み終えて、あらためて郷土玩具はいいなと思った。

(現代の感覚でいえば)直球のかわいさではないところ、話が通じるような通じないような何を考えているか分からないところがいい。

ワイズベッカーは小さいころ、「箒にまたがって、板きれを盾に」、「三銃士ごっこ」をしていたらしい。
「当時は、空想が補ってくれたおかげで、なんでもないものでも楽しく遊べたのだ。」と回想している。

郷土玩具にも通じるところがあるのかもしれない。
目や鼻がなかったり、手足が極端にデフォルメされていたり、そういうところに想像の余地が残されているところが魅力なのかもなと思ったりする。

本のなかでワイズベッカーは、工房で制作体験をしたり、一緒に宴会をしたりしていることがうかがえるが、自分は人見知りだし、酒も飲めないし、偏食なので、こういうのは無理だなとか、いらん想像もしたりする。

個展に来てくれた古本屋さんに郷土玩具系の本を教えてもらい、ほしい本が増えてきて楽しみである。



今日はガス橋から帰ってみることにした。
名前からしてちょっとスチームパンクのかおりがしなくもない。
こういうのも想像の余地といえるのだろうか。

知らない街の知らない街灯はやっぱりいい。特に夜。

一見するとノーマルな四角い街灯に見えるが、よく見ると灯りの部分に模様が入っている。
こういうのはとても好き。

ガス橋が近づく。

ガス橋に着いた。

肝心な橋の写真だが、とにかく歩道の狭いところで止まっている余裕がなかったので、撮れなかった。

丸子橋は外観も立派で、道も広くて、分かりやすくいいところだった。
止まって景色を撮っている人もたくさんいた。

ガス橋は、丸子橋よりもだいぶ簡素で、さびれていた。
これはこれで魅力的だが、なにぶん道が狭いうえ、柵も簡素なのでとにかく恐い。

ガス橋を抜けて大田区側に出ると、いきなり並木道が出てきて楽しかった(ここも写真は撮れない)。

目まぐるしく街の雰囲気が変わるところを走るのはとても楽しくて、ポケモンで「じてんしゃ」に乗っている感覚を思い出す。○○番道から街を抜けてまた道路に出たり。
雰囲気が変わる瞬間に、脳内でBGMも変わったりする。

下丸子商店会の街灯はなんと、上段だけ色が違う。
最初は1基だけ壊れているか、後で取り替えたのかなと思ったが、全部違っていた。素晴らしい!

昼間の街灯はどうなっているのだろうか。



土曜からは後半戦。長いような短いような。
またよろしくお願いします。

outa.waruagaki
都内在住。2016年2月までタイに2年半在住。絵を描いたり、街灯のことを書いたり、散歩したり。

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